木戸を開けて中に入ると、コンクリートの床に背の高い花瓶がずらりと並び、色とりど
りの花があたりを埋め尽くしていた。
 その奥には黒い金網で囲われた内陣があり、この廟が祀る神々の木像が安置されてい
る。
 その前の香炉からたちのぼる香煙と、花の芳香がまじりあって、頭がぼおっとするほど
の香気が堂の中に満ちていた。
 ネクタイをしめ直し、髪に櫛をいれて身なりを整えると、成川は奥にむかって声をかけ
た。
 すると、内陣の横からサンダルをつっかけた小柄な女性が姿を現した。
 身長は百五十センチたらず。トランジスタ・グラマという言葉がぴったりの、小柄で愛
くるしく、おまけにセクシーな女性であった。
「こんな夜おそく、お訪ねしたことをお許しください。黄さんの紹介でまいりました」
 成川は慇懃に頭をさげると、胸ポケットからあのペンギンの縫いぐるみを取り出して見
せた。と、
「黄さんは、その使い方を教えてくれなかったの?」
 女は長身の成川を見上げて、鳥がさえずるような甲高い声でいった。
 成川が戸惑っていると、女は成川の傷ついた左手をとり、ペンギンの縫い目をひきち
ぎって中からこぼれでてきた朱色の粉をふりかけた。
 あまりの痛みに、成川は思わずうめき声をもらした。
 けれども女は成川の手を離さず、朱色の粉をただれた皮膚にゆっくりとすりこんでいっ
た。
 やがて、「ブ・ヤオ・チン」とささやきながら、女は成川の手の甲をなでた。
 左腕の肘から下は絵の具を塗りたくったように朱色にそまっていたが、目で見てわかる
ほど腫れはひいて、痛みも少なくなっていた。
「これは・・・?」
「仙道の薬の一つ、朱砂よ。もともと魔物を退けるために作られたものなのだけどね」
「魔物?」
「それに襲われたんじゃないの?」
 女はいたずらっぽくウインクした。
 成川は女の洞察力に感服した。だが、いまはそれよりももっと重要なことがある。
「それより、天帝の布を見せていただけるのでしょうか?」
 と尋ねると女は、「ともかく、あなたの名前と生年月日を教えてちょうだい。それを見
てから決めるわ」と応えたのだった。
 道教の巫女や司祭は、肩書きよりも生年月日から推測される人物像を第一に考える。中
国ではよくあることだ。
 成川は迷った。自分の名前は成川浩一とすべきか、成川朋康とすべきかと。
 結局、成川朋康とかいて渡すと女は小首をかしげて、「本名でなければだめよ」といい
かえした。
 女の直観力に敬意をはらい、成川は真実を告げるつもりでパスポートを開いた。
 そして、ふたたび言葉を失った。
 パスポートの写真は、ストレートな髪をバックにしたいつもの彼に戻っていた。だがそ
の名前は成川晶彦と書かれているのである。
(こんなバカなことが・・・)
 成川は、ただ呆然とパスポートを見つめていた。
 すると女は、しげしげと成川を見つめてこういった。
「あなたは、この世界のほころびなのかもしれない。だから組織は、あなたをここによこ
したのかも」
「ほころび?」
「そう。神の失敗作ということ」
「ちょっと、待って。ぼくには全然わからない。いったい、どういうことなんです?」
「わかる必要はないの。あなたは、ただ感じればいいの」
 そういうと女は長い線香に火をつけ、かぐわしい煙で成川の全身を清め、お祓いをはじ
めた。
 それが終わると、成川の手を引いて内陣の扉を開けた。
 そこに安置された神像を目にしたとたん、成川の身体を戦慄が駆け抜けた。
 道教寺院の常として、その神像は豊かなひげをはやし、中国の宮廷衣装を身につけてい
た。
 だがその顔は、あまりにも若々しく、美しかった。
 繊細な心をうかがわせる目は、はるか遠くをじっと見つめて、いまにも動き出しそうである。
「これが天帝ですか・・・」
 成川はきいた。
「この方は天人。天帝になれるだけの資質と才能に恵まれながら、地に堕ちて死んだと伝
えられているの。だからここは天人廟」
 女の話を最後まで聞かずに、成川は神像の前にひざまずいていた。そうせずにはおれな
かったのだ。
「天人の肩のあたりにさわってごらんなさい。そこに、いまから二千年前に、天人が着
ていたといわれる衣が縫いこんであるの。あなたなら、なにかを感じ取れるかもしれな
い」
 女に促されて、成川は肩にふれた。
 瞬間、堰を切ったようにさまざまな記憶が噴き出してきた。
 小さなころから月が好きで、夜になるとスケッチブックをとりだし、四季折々の月と
夜の景色を描きつづけたこと。特に月明かりにはえる植物が好きで、蘭や鷺草の鉢植え
を育てたこと。なぜか、盆栽のコンテストで賞をとったこともあった。
 そんな懐かしい記憶の断片のあとから、まがまがしく恐ろしいイメージが湧きあがってきた。
 人の内臓のような色をした、原形質の肉の塔が廃墟にそそりたっている。その肉の塔
に向かってつぎつぎに人がよじのぼり、のぼりきれずに肉の塔に吸い込まれてゆく。
 やがてその塔は自らの意思をもって動きはじめたのだった。
 その肉の塔に挑む美しい少年の傍らに、自分がいた。
(死ぬな。必ずおれが助けてやる。死ぬな・・・)
 成川は、少年に向かって必死に語りかけていた。
 めくるめくイメージの奔流にまきこまれ、デ・ジャブの海を漂っていた成川は、鶏の
鳴き声にはっと我にかえった。
 いつの間にか夜が明け、小さな窓からさしこむ朝日が、まぶしく成川を照らし出して
いた。
 おもむろに身を起こした成川は、昨夜とはなにかが違うような気がした。
 妙に身体が軽い。
 ふと左手を見ると傷は癒えて、手の甲にうっすらと赤い筋が残っているばかりだ。お
まけに生まれ変わったように心地よい。
 天人の端整な立像に頭をさげると、成川は内陣をあとにした。
 切花は新しいものが盛られ、香炉には線香が焚かれていたが、女の姿はどこにもな
かった。そして供物を捧げる台に、彼のパスポートが置いてあった。
(もしかしたら・・・)
 と、思いながらパスポートを開くと、やはり名前は変わっていた。成川正敏、それが
新しい彼の名前だった。
 しかも今度は顔つきまで変わっている。どうみても、いまの自分より十歳は若い。い
や、もしかしたら・・・
 成川は柱にかかった八卦鏡に自分を写してみた。
 するとそこには、パスポート写真と同じ若々しい自分が写っていた。
 いったい、何度こんなことがくりかえされるのか。いや、成川にはなぜかその答えが
わかっていた。
 ここを離れればもう当分、いやもしかしたら二度とこんなことは起こらないかもしれ
ないと。

ムーン・ファイル/おわり

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