ムーン・ファイル

                 著者 AN

 

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 成川浩一がエレベータの中で軽い眩暈をおぼえてしゃがみこんだとき、腕時計はたしか
に午後五時四十五分をさしていた。
 六時にこの碧洋大飯店のロビーで、ある人物との待ち合わせがある。周辺の安全確認を
するつもりで、十五分前に部屋を出たのだから。
 だが、エレベータのドアが開いてロビーに降り立ったとき、正面の時計はちょうど六時を
さしていた。
 反射的に目をやった腕時計も、同じ時間をさしている。
(どういうことだ?)
 考えるより前に、手は胸ポケットをさぐっていた。エレベータの換気口を通して、短時
間意識を失わせる薬をかがされた可能性もあるからだ。
 パスポートは大丈夫だった。携帯は・・・むろん内閣情報調査室の参事官である成川浩一
は、交信記録など残さない。しかしこの携帯に組み込まれたデータを奪われたら、少々
やっかいなことになる。
 数字の『0』に親指をあてると、グリーンのランプがついた。
 このキーには、指紋識別装置がついている。もし彼以外のだれかがキーにさわったとし
たら、すべてのデータは消去されて携帯は使えなくなるはずだ。
(考えすぎだ。時計を、見まちがえただけだろう・・・)
 成川は不安を押し殺すと、オールバックの髪をなであげながらゆっくりとロビーを横切
り、出入り口に近いソファに腰をおろして両切りのポールモールをくわえた。
 それが合図だったとみえて、所在なげに公衆電話のまわりをうろうろしていた男が、さ
りげなく成川の隣に座った。
「あなたがナルカワさん?」
 男はやや癖のある日本語で話しかけながら、成川のオールバックの頭をけげんそうにち
らっと見た。
 成川は男の視線になんとはなしに不快感を感じながら、「そうです。黄さんですね?」
ときき返した。すると黄と呼ばれた男はせわしなく二度うなずいた。
「天帝の布のありかをご存知だとか」
 成川がそうたずねると、黄はすばやくあたりを見回し、「陽明山のふもとに」と小さな
声でささやいた。
 成川は台北市の地図を、思い描いた。
 陽明山は市の中心部から十キロあまり北にある丘陵で、西側にはリゾート地があり、そ
の周辺は古くからの住宅地になっている。あんなところに、世界を変えるとも噂される布
が眠っているというのか。
 考え込む成川に、「これを持って、天人廟の観音様をお訪ねなさい」というと、黄はポ
ケットから小さな縫いぐるみを取り出して、成川の手に握らせた。
 中に砂でも入っているのか、心地よい重さが伝わってくる。あらためて見ると、それは
ペンギンをかたどった縫いぐるみであった。
「これは・・・」
「水鳥は中国では北、つまり天帝の象徴なのです」
 そういって黄はにやりと笑った。
 中国風水では、水鳥は北方の象徴だというのは事実である。たしかにペンギンは水鳥で
はあるが・・・南極の鳥ではないか? 成川は、なんだかからかわれているような気がしてき
た。
 そんな成川をせかすように、黄は立ち上がった。
「さあ一刻も早く行きなさい。あなたのまわりでは、すでに時間が変わりはじめている」
「時間が? それはどういう・・・」
「パスポートをごらんなさい。そうすればわかる」
 そういい残すと、黄はせかせかと歩き去った。
 黄がどういうつもりでそんなことを口にしたのかわからないまま、成川は物陰で胸ポ
ケットからパスポートを取り出した。
 中を開いた瞬間、なんともいえぬ違和感をおぼえて、成川は自分の写真に見入った。そ
こには短く刈り上げた髪にゆるいウェーブをかけた彼が写っている。
 このパスポートは内閣府の参事官であることを隠すために、日本を発つ数日前に作り直
したものだ。むろん写真はそのときのものだが、成川はいまだかつてこんな髪型にしたこ
とはない。
 それに・・・名前が変わっている!
 成川朋康。
 さっきエレベータの中で生じた空白の十五分、あの間にパスポートを差し替えられたと
しか考えられない。
 だが、いったいだれが、なんのためにそんなことをしたというのだ。どちらにしてもパ
スポートの名前が朋康になっている以上、台湾滞在中はそれで押し通すしかないだろう。
成川はその名前を頭に刻みつけて、油断なくホテルを後にした。

 

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