タクシーはすぐにつかまった。
「陽明山の麓にある、天人廟というのを知っているか?」
 台湾語でそういうと、運転手はにっこり笑ってうなずき、車を中山北路に乗り入れた。
 運転手の受け答えから、天人廟は有名な道教寺院なのだろうと思ったが、どうやらそう
ではなかったらしい。
 運転手は無線で本部に連絡をとり、天人廟はどこにあるかを尋ねた。本部ではだれも知
らないとわかると、今度は携帯で運転手仲間と連絡をとりはじめた。
 いいかげんなものだが、まあ陽明山の麓までいけばなんとかなるだろうと、成川はシー
トにもたれて窓の外を見やった。
 車道にはスクーターが目立つ。国産二輪車を保護するために、台湾政府はさまざまな障
壁を設けて海外、特に日本のバイクの輸入を規制している。だから街中のいたるところを
スクーターが走っているのだ。
 そのうちの一台が強引に左側を追い越していった。
 電話していた運転手はカッとしてアクセルを踏み込み、スクーターを撥ねとばさんばか
りの勢いで、抜き返した。
 するとスクーターを運転していた若者は指を突き立て、フルフェイスのヘルメット越し
に憑かれたような目でこちらを睨んで、なにごとかを叫んだ。
 エンジン音にまぎれてはっきりと聞き取ることはできなかったが、その声を聞いた途
端、なにか冷たいものが心臓をぎゅっとつかみ、全身に鳥肌がたった。どこかで聞いたこ
とがある声・・・だがどこで・・・
「お客さん、どうしたんです?」
 運転手が、ルームミラーを見ながら声をかけた。
「いや、ちょっと運転が乱暴すぎるんじゃないかと思ってね」
 成川は蘇りかけた記憶に封印をほどこして、あたりさわりのない返事をした。
「ハハハ、これでも私は四十年間無事故ですよ」
 それはけっこうなことだ。だが、だからといって明日事故に巻き込まれないとはいえま
い。
「それより天人廟はどこにあるかわかったのかい? わからなければ新北投駅でおろして
くれ」
「いや、ちょっと待ってください。知っていそうなやつが見つかったんで」
 運転手はいいわけしながら、また携帯電話をかけはじめた。
 ため息をつくと、成川は背もたれに身体をあずけて外の景色を眺めた。
 大都市というのは、どこにいっても似たような景観をしているものだが、台北には他の
都市にない独特の雰囲気がある。緑、黄、赤といった風水でよいとされる色が氾濫し、建
物の形もまた風水によって決まるからだろう。
 同じ中国でも、北京はこれほど風水にはこだわらない。そもそも北京を担当していた自
分が、なぜ天帝の布などというわけのわからないものの調査に台湾くんだりまで駆り出さ
れたのか、成川にはいまひとつしっくりこないものがあった。
 そのとき、「ウェイ?」と運転手が大きな声をあげた。
 ふっと顔をあげると、運転手が携帯に向かって大きな声で呼びかけている。混信したの
か、なにかの加減で通信が途切れたのか・・・携帯からは奇妙なうねり音が聞こえてくる。
「ウェイ?」
 運転手の呼びかけに応じて、うねり音が大きくなったかと思うと、液晶ディスプレイの
まわりにふつふつと水滴がこびりつきはじめた。
 それを見た瞬間、成川の心の中でなにかが爆発した。直感というには、あまりに切迫し
た衝動にかられて、成川は運転手の手から携帯を奪い取ろうとした。その刹那、ディスプ
レイを衝き破って白いどろどろとしたものが出現して、運転手の左の耳にねじ入った。
(アピペ!)
 記憶の中から、言葉が飛び出してきた。
 その間にも、運転手はハンドルを離して無我夢中で携帯を投げ捨て、コントロールを
失った車はガードレールにぶつかり、微塵に砕けたフロントガラスが車内に飛び散った。
 衝撃で一瞬気を失いかけた成川は、運転席の背もたれをつかんだ左手にぬらっとしたも
のを感じて我にかえった。
 と、運転手の頭蓋を食い破って姿を現した白蛇が、成川の左手にからみついているので
ある。
 パニックに囚われた成川は、後先考えずに足首のホルスターからハンドガンを抜き取
り、白蛇にむかって引き金をひいた。
 衝撃音とともに、白蛇の頭部は微塵にくだけて飛び散った。
 痙攣する蛇身を引き剥がし、ゆがんだドアをこじあけて外に出るのと同時に、パトカー
のサイレンが聞こえてきた。
 そして道路の反対側には、あのスクーターの若者がいた。
 成川と目線をかわすと、若者はおもむろにヘルメットをぬぎ、豊かな銀髪をかきあげながら
甲高い笑い声をあげた。
(あいつのしわざか?)
 成川は後先考えずに車道に飛び出した。
 目の前に迫っていた車が急ブレーキをかけ、後からやってきた車がそれに追突して、怒
声が響き渡った。
 かまわずに車道を渡りきった瞬間、若者は成川の胸をさして「ロメス・アル・ハーレ
ツ」と叫ぶなり、スクーターに飛び乗った。
 同時に胸の携帯電話が呼び出し音をあげた。成川は携帯を取り出すなり、発信元を見よ
うともせずにアスファルトの路面にたたきつけて踏み潰した。割れた基盤の間から瀕死の
白蛇が這いだして、憎らしげに首をくねらせてカッと牙をむいた。
 踏んで、踏んで、白蛇がどす黒い肉の塊になるまで踏みつけて、ようやくあたりを見回
すと、もうどこにも若者の姿はなかった。
 それよりも事故車のまわりに集まった野次馬が、成川の方を指差してなにごとかわめ
き、警察官が道を渡ってこちらにやってこようとしていた。
 この状況では、どんな嫌疑をかけられるともかぎらない。こんなところで捕まるわけに
はいかない。
 警官がなにか叫んだが、かまわずに成川は商店街に駆け込んだ。すると目の前のコンビ
ニの駐車場に、バイク便のスクーターが停まっていた。
「陽明山の麓まで、いってくれ。大至急だ!」
 成川はバイク便の若い男に、ありったけの千元札を握らせて叫んだ。
 一月分の給与にも等しい現金を握らされては否も応もない。男はただちにスターターを
入れると、きき返した。
「お客さん、陽明山の麓じゃわかんねえよ。もうちょっとはっきり住所をいってくんな
い?」
「天人廟というのを知っているか?」
「天人廟・・・ああ、美人の巫女さんがいるとこだな。まかせろ」
 男はうなずくと、猛スピードで走りはじめた。
 この男にめぐり合えたことに感謝しながら、成川は左手に烈しい痛みを感じた。
 さっき白蛇がからみついたところが、まるで焼けたニクロム線をまきつけたように、赤
くただれて膿をもちはじめているのだ。
 だが、手当てをしている余裕はない。成川はバイク便の男に運命をゆだね、じっと前方
を見つめていた。
 一方通行の道を逆走し、私有地を走り抜け、走って、走って、走りぬくうちに、道が
徐々に上り坂になり、行く手に陽明山が見えてきた。いや見えてきたというのは正しくな
いかもしれない。人家が密集した百齢五路の周辺で、その山だけがうっそうと茂る木立に
覆われて、巨大な闇となって盛り上がっていたのである。
 やがて、街路灯もない住宅街の真ん中でスクーターを停めると、男は「ついたよ」と
いって、道の傍らを指差した。
 そこには伝統的な中国の民家に埋もれるように、こじんまりとした道教寺院の門があっ
た。
 その屋根の下に、『天人廟』という木の額がかかり、かぐわしい匂いが漂ってきた。

 

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